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アーティスト 塩井一孝|離れざるを得なかった人たちに、双葉の海の光を届けたい|メッセンジャーインレジデンスレポート#1

2024年8月9日

2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。


メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。今回は、メッセンジャーの一人である塩井一孝さんにインタビューをしました。


「ヒラクフタバ」プロジェクトとは、「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。https://www.hiraku-futaba.jp/

ー塩井さんの普段の制作活動についてお教えください

私は福岡県の宗像市を拠点として、様々な造形作品を制作しています。主な作品は「写光石」というもので、写真を和紙に印刷して、海岸や河原で拾った石に定着させた造形作品です。色々な場所で撮影した写真を「記憶の光」として捉え、人が写光石に触れたときに、撮影場所の光に触れたような体験を味わってもらえる装置として制作を行っています。



塩井一孝|アーティスト/九州大学芸術工学部 非常勤講師。1987年宮崎県生まれ、福岡県宗像市在住。福岡教育大学大学院修了(教育学修士)。身近な自然を題材に作品を制作している。2022年に作品が世界遺産・宗像大社に奉納された。


ー双葉町を訪れる前は、どのような心境でしたか

私は今回の訪問まで、東北地方を訪れたことがありませんでした。ですから、双葉町を訪れる前は、東北や双葉町は私にとって身近な場所ではなかったのです。そしてそれは、「震災」そのものに関しても同じことが言えます。震災当時、私は福岡県の大学院を修了したばかりで、就職を目前に控えた春休みの真っ最中でした。ニュースで震災の知らせを聞いたものの、福岡まで地震の波は届かず、どこか他人事のように感じてしまうところがあったように思います。そうしていつしか、忙しい会社員生活が始まり、東日本の震災はどんどん遠いものになっていきました。だからこそ、今回お話をいただいたときには「ちゃんと知っておきなさい」と神様に言われたようにも感じました。


ーー現地では、どのような場所を訪れたのでしょうか


二泊三日の滞在中に、神社や廃墟、震災を未来に伝える「伝承館」を訪れ、商店街も案内していただきました。そんな中で、私がアウトプットの題材に選んだのが海です。双葉町に到着した日に、私は早速海に向かいました。それは夕暮れ時で、紫に染まる海の姿が、これまで見たことのない新鮮な光景だったことを覚えています。空は広く、水平線のずっと向こうまで雲が伸びていく。なにより、島の影が見えないのが印象的でした。どこまでも広がる海に、「私は最果ての地にいるんだ」と少し感傷的になったのです。そして次の日には、日の出を撮影するために、早朝から海へと出かけていきました。その道中で目にしたのが、朝の光に照らし出された津波の爪痕でした。廃墟と化した建物。「この先、帰還困難地域につき、通り抜け禁止」という看板を見て、私は改めて震災の地に足を踏み入れたことに気付きました。おおげさかもしれませんが、SFの世界に入り込んだような、それほどのインパクトがあったように思います。





ー作品のアウトプットについて、どのような考えを持たれているのでしょうか

今回の制作テーマは「海の光を捉えること」。そこで、撮影した海の写真を貼り付けた写光石を制作しています。「日の出」「昼間」「夕暮れ」という3つの時間帯で、違った光を見せる海を写真に収められたので、それぞれを作品化するつもりです。実は、海を題材にすることはあらかじめ決めてはいたのですが、もし現地で心変わりしたら、それに従って題材を変えることも想定していました。しかし、結局そうはなりませんでした。自分の足で双葉町を歩いてみて、改めて海の光を捉えるべきだと思ったのです。なぜならこの海は、かつてここにいた人々が慣れ親しんだ海だからです。海水浴を楽しみ、浜辺を散歩しながら風を浴びた、そんな思い出の場所に違いない。「ここを離れざるを得なかった人たちに、双葉の海の光を届けたい」。そうした想いがどんどん強まりました。ただし、「町を離れた人たちだけに」というのでは、双葉町の魅力が閉じてしまいます。双葉町を開いたものにするためには、アウトプットの届け方も重要になってくるのではないか、そう考えています。



ーそういった「届け方」という考えは、まさにメッセンジャー(=伝達者)という役割に即したものだと思えます。それは最初から意図されていたのですか

現地を訪れたことで、新しく私に宿った考え方ではないでしょうか。町民の方との対話はもちろんですが、双葉町に研究に訪れる学生や観光客、海外の方々にまでフィールドを拡げていきたいのです。こんなふうに多角的に伝えていきたいと考えるようになったのは、私にとっても意外なことでした。正直なことを言うと、もともとは「依頼された仕事」という気持ちから始まった制作活動だったのです。しかし、「故郷が、何の前触れもなく地震と津波に襲われ、次いで原発事故が起こって、13年もの間立ち入りできなくなる」という状況を双葉町の伝承館で知り、当時の光景を頭の中で描いてみると、こみ上げてくるものがありました。きっと、私では及びもつかないような複雑な感情を抱えている人たちがいる。そしてそれは、私と同じ世代の人かもしれない。こうした経験が、「作家として何ができるか」という問いを与えてくれました。たとえば、今回の試みだけに留めず、美術作品として「双葉の光を撮った写光石」を作品化できるかもしれません。そうすれば、「双葉」の名前を、震災以外の文脈の中に残していくこともできるはずです。





ー今回、双葉町を訪れて作品を作り上げたことは、今後の制作にどのような変化をもたらすでしょうか

双葉町でのある経験が、私の制作活動がどんなものであるのかを明確にしてくれたと思います。最終日の夜、私はホテルから海まで散歩に出かけました。夜の海には恐ろしさはなく、私は素直に「綺麗だ」と思いました。ふと振り返ってみると、ほとんど人のいない町にホテルや施設の明かりが煌々と輝いています。そんな光景を見つめていると、私はなんとも言えない気持ちになりました。発電施設が原因となって、大勢の人々が町を離れた後も、電気が町を照らしている。そして、自分が立っているこの場所に、かつて巨大な波が押し寄せて、あらゆるものを飲み込んでいった。にもかかわらず、「綺麗だ」と感じる自分がここにいる。この矛盾は何だろう。そんなふうに、過去から現在へと想いを馳せていると、せめて私にできることは、ここを立ち去った人々の魂を鎮めることではないか、つまり「祈り」なのではないかと思ったのです。そしてそれが、私の作品の本質的な価値なのかもしれません。今後は「祈り」という文脈をはっきり意識した上で、制作に努めていくつもりです。








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