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音楽家 Jun Futamata|共存するコントラスト|メッセンジャーインレジデンスレポート#11
2025年6月18日
2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。
メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。今回は、音楽家のJun Futamataさんにインタビューをしました。
「ヒラクフタバ」プロジェクトとは:「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。Webサイト:https://www.hiraku-futaba.jp/

Jun Futamata|音楽家。自然現象をインスピレーションに、声や音を楽器のように重ね、ボーカルともインストゥルメンタルとも異なる独自のサウンドを追求。映画やドラマ、アニメ、ゲーム、TVCMなど幅広いジャンルで活動を続けている。アイスランドでレコーディングしたセカンドアルバム『あなたの骨が、オパールにかわる頃』をリリース中。
― Junさんにとって、東日本大震災はどんな出来事でしたか。
震災が起きた当時、私は都内の実家に帰っていて、ちょうど確定申告の作業を進めているところでした。家が潰れるのではないかという恐怖を感じ、ようやく揺れが収まってから自分の住むアパートに戻ると、家具や家電が散乱しており、地震の壮絶 さを物語っているようでした。それまでの私は、忙しい中でもささやかな幸せを感じられる日々を送っていました。しかし、震災後は広告のタイアップやレコーディング、芸術祭などのイベントも含めて多くの仕事がストップしてしまい、約3ヵ月もの間じっと家にこもる生活が続きました。段々と自分の体力が減ってしまうように感じる中で、「音楽では人を救えないのではないか」という無力感に苛まれたことを覚えています。緊急事態において必要とされるのは、住む場所や食料のようなライフライン。これまで情熱を注いできた音楽のあり方が分からなくなり、これからの自分を見失いそうにもなりました。
―そうした想いがあって、被災地である双葉町を訪れると聞いたときは、どんな心境だったのでしょうか。
私は震災を通して双葉町を知りました。福島第一原発が立地している町。東京に暮らす私たちにとって、そこは生活に欠かせない電気を賄っていた場所でもあります。しかし、私は原発事故が起こるまで、そのことをまったく知りませんでした。「ぜひ行きます」と返事をした後も、双葉町に足を踏み入れることで自分の中に生まれる感情を受け止められる自信がありませんでした。一方で、だからこそ「見なければならない」という使命感や焦りもあったように思います。自分の意思で行ってみようと踏み出せなかった場所を訪れるきっかけが巡ってきたのだと、そう感じました。
―現地を巡る中で、印象に残った場所はありますか。
印象的だったのは、個人の家の前に、「立ち入り禁止」の柵が建てられていた光景です。玄関までは辿り着けるのに、その先には行けない。その様子はあまりにも象徴的で残酷でした。人災によって、住む場所を失われた人たちがいるという現実を、はっきりと突きつけられたように思います。そして、黒いビニールに包まれた廃棄物が町中に点在していることにも胸を締めつけられました。いかに自分が、震災を「すでに終わったこと」として片付けていたのかを思い知らされたのです。地元の方に案内をしてもらった旧双葉町役場では、震災直後の混乱がそのままの姿で残されていました。カレンダーの日付は「2011年3月11日」のまま。十数年前のポスターが色褪せ、時計の針は2時26分を指したまま動きません。おそらく即席で作られたであろう対策本部のホワイトボードには、福島第一原発の状況を記録する文字列が並び、混乱の中で交わされた会話の気配が、まだそこに漂っているようでした。その一方で、役場の取り壊しを進める作業も進められていました。「残した方がいいのでは」という外部の人間としてのエゴと、「現地の方にとってはその方がよい」という矛盾した感情が自分の中で渦巻いていました。

―そうして双葉町でさまざまな感情を受け止めたことを踏まえ、どんな形でアウトプットをしていくのでしょうか。そして、作品を通して何を伝えたいですか。
時間が止まった役場や、侵入を拒むバリケードなどの震災の爪痕を目にした一方で、それとは違う動きを持つものを見かけました。たとえば、海沿いに新設された防波堤や、カフェと工場を併設する「フタバスーパーゼロミル」。今回の制作では、こうした「共存するコントラスト」を主題にしてみたいと思っています。現地で収録してきた草の音、水の音、ふと口ずさんだ津波に さらわれた消防車を見て浮かんだメロディー、震災の被害を受けて修復されたピアノで弾いたフレーズの演奏などのさまざまな記録と、自分の中に芽生えた感情の変化をもとに、音楽を組み立てていくつもりです。
また作品を通して、現地で録音してきた音源を「今の双葉町」の記録として残せたらいいなと思っています。私が目にした双葉町は、「止まったまま」と「動いている」が共存する町でした。立ち入ることのできない住宅街や、草がぼうぼうに生えた更地がある傍らに、新たな企業のオフィスや工場、ホテルなどが建設されている。そこには、発展していくエネルギー喜びと喪失感が共存しており、複雑な世界観をつくりあげていました す。それはきっと、変革期にある今だからこそ感じられるものなのかなと思いでます。私のように双葉町のことを見過ごしてきてしまった方皆さんに、喜び希望や悲しみの間にある複雑な気配やゆらぎを、音を通して表現できた伝えられたらと思っています。

―今回の訪問を通じて、Futamataさんの活動にどんな変化が生まれるでしょうか。
私はこれまで、自然現象からインスピレーションを受けて作品を作り続けてきました。今回の滞在によって、そこに「地震」という新たな要素が含まれてくると思います。そして、心の中で複雑に絡み合う感情に出会えたことも大きな経験でした。双葉町を訪れる前に抱いていた不安と使命感、町に共存するコントラストから受け取った希望と喪失、かつて双葉町に住んでいた子どもたちの「いつか集まりたい」という郷土愛と、震災後に双葉町に集った人々の未来に馳せる想い。こうした相矛盾する感情を一つにすることは簡単ではありませんが、迷いながら、試しながら、これから私は音楽を作っていくような気がしています。立ち入り禁止区域で揺れていた草たちは、カラカラと渇いた音を立てていましたが、そっと撫でてくれるような温かさも感じさせてくれました。そうした不思議な心地よさを、表現していきたいです。

―双葉町は、これからどんな未来に進んでいくと思いますか。
双葉町は、すべての住民が町から避難するという「全町避難」を経験しました。こうした経験はとても稀で、今の双葉町の特異性になっていると思います。町全体をゼロから設計できる場所は、日本にほとんどありません。無人車が走行できる道路の建設や、ドローンを活用した宅配システムなど、最先端の技術実験を行う場所になりうる可能性もあるのではないでしょうかす。震災の経験を「悲しいこと」としてマイナスに捉えるのではなく、それを乗り越えようとする「エネルギー」に変換してみる。そうした力が、もうすでに双葉町のいたるところで芽吹いているように感じましたます。役場を案内してくださった方は「復興っていう言葉がこの街にはもう似合わないです。元の通りにはしようと思えないほど、時間が経ってしまいましたから」と仰っていました。震災という分岐点を過ぎた双葉町は、「震災を経験せずに進んだであろう未来」ではなく、「震災があったからこそ進める未来」に向かって進んでいるのだと思います。スタートラインに立ち、これから成長していこうとする双葉町の姿は、きっと皆さんにとっても、自分の選択を考える道しるべとなるような大切な経験になるのではないでしょうかはず。これから新しい一歩を踏み出そうとしている世の中を作っていく若い方々には、ぜひ双葉町を訪れてほしいです。