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地域エコノミスト 藻谷浩介|日本で最後の開拓地|メッセンジャーインレジデンスレポート#12

2025年6月18日

2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。


メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。今回は、地域エコノミストの藻谷浩介さんにインタビューをしました。


「ヒラクフタバ」プロジェクトとは:「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。Webサイト:https://www.hiraku-futaba.jp/




藻谷浩介|地域エコノミスト。平成合併前の全国3,200市町村のすべて、海外142ヶ国を自費で歩き続けてきた、生粋のフィールドワーカー。年間300本のペースで講演を行いながら、その度ごとに異なる「お客さん」の存在を意識した対話を心がけている。㈱日本総合研究研究所主席研究員、NPO法人「ComPus 地域経営支援ネットワーク」理事長。著書に『デフレの正体』、『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』など多数。近著は『誰も言わない日本の「実力」』(毎日新聞出版)



― 藻谷さんにとって、東日本大震災はどのような出来事でしたか。

2011年3月11日14時46分。私は永田町の議員会館の地階で、議員の勉強会の講師を済ませたところでした。地盤が極めて固い場所なので、かすかな揺れに気付いたのは、周囲では私だけ。しかし1階の玄関を出たところで、見渡す都心を覆う不穏な空気に、ただならぬことが起こっていると直感しました。とっさの判断でタクシーを拾い、帰宅難民になるのは免れたのですが、その後の1ヶ月ほどは心が真っ暗。銀行員時代に初めて融資をした案件が大熊町の原発運転要員訓練施設の増設で、その翌年に初めて人前で登壇したのが陸前高田市でしたし、2階まで水没した仙台空港を使ったのは、津波のわずか67時間前でしたし。

翌月末からは、政府の復興構想会議の計画部会委員に招集されました。被災したすべての町々を細かく知っている者として、「三陸の水産業も工業も間違いなく復興するが、人口は大きく減るので、市街地は高台に縮小して再建すべき」と提言しました。

以来、被災三県のアドバイザーをしたり、理事長を務めるNPO法人コンパス主催で被災地ツアーを繰り返し行うなど、私なりのアプローチで東日本大震災と関わってきたのです。



― 現地では、どんな場所を訪れたのでしょうか。

今回は常磐線や常磐道を使わず、郡山駅からカーシェアで、行きは国道288号経由、帰りは114号経由で双葉へ往復してみました。双葉町や大熊町、浪江町の津島地区は、最後まで立ち入りが禁じられていた区域だけに、震災後はまだ、両ルートを使ったことがなかったのです。

昨年に電車で来た時には人っ子一人見なかった双葉駅周辺に、人の匂いが戻ってきていることには感動しました。大野駅前のCREVAも夜に見に行きましたが、数軒の飲食店がそれぞれ賑わっていたのも、また驚きでした。

かつて、NPOの被災地ツアーで福島県の飯舘村を訪れたときのことを思い出します。震災直前の年には、畜産の成功によって、東日本でも数少ない「人口転入超過」になっていた飯舘村。しかし、原発災害によって基盤がぶち壊されてしまった姿に、私に同行していたNPOスタッフは泣き崩れてしまいました。村民の悲しみは、さらにいかばかりかと、底知れぬ思いのしたことを覚えています。

そんな私の目の前に、人の温もりが戻り始めた双葉町の姿がある。復興会議の計画部会では、「はるかに強烈な放射能にさらされた広島でも、30年後にはカープが初優勝している。雨の多い日本では、数十年すれば住める土地は蘇るはず」と語っていた私ですが、それよりも随分と早く立ち直り始めた姿には、目を見張りました。

また双葉町の伝承館の一画では、思わず涙ぐんでしまいました。原発から逃げずに運転にあたった人の中に、放射能を浴びるのが必至の作業に身を挺した人がいたという証言を聞いて。日本人の中でも、とりわけ東北人は自慢をしないのですが、安全神話をでっち上げた人たちの責任追及も、現場で英雄的に戦った名もない人たちへの賞賛も、もっと大声でやっていいのではないでしょうか。





― 今回の滞在を経て、どんなことを伝えたいですか。

これから年々、放射能は消えていきます。広島よりさらに強力なプルトニウム爆弾の落ちた長崎で、皆が普通に暮らしているように、双葉町でも年々、住める場所は広がります。

しかし、ここまで14年の歳月は余りに長く、かつて7000人近くいた住人のほとんどは他所に生活の基盤を築いてしまっていて、「それでも今の双葉町に戻ってきたい」と願い、行動した人たちは、1%ほどしかいません。

その一方で、人類の中には一定比率で「開拓者」の遺伝子を強く持つ人がいるもので、縁もゆかりもなかった双葉町に移住して来た人が、数では旧住民を上回っています。今の時代に生まれて、「一からまちづくりをしたい」という方にとって、双葉町に関心を持たないのはありえないでしょう。そして復興には、そうした「新たな住人」の存在は欠かせません。戻ってきた地元民の皆さんも、彼ら新参者を否定的には捉えていないはずです。

しかしそれでも、新住民と事故前の景色や思い出を共有はできないことに、戻ってきた人は戸惑いや寂しさを感じているでしょう。ですから大切なのは、少しでも残せるものは残すように町をつくっていくこと。大熊町の大野の駅前のような、これまでとまったく違う町にする、というようなやり方は、双葉町の目指すべき未来像とは違うのだと思います。役場職員の方が、「どこがどこだったのか、分からなくなるような町にはしません」とおっしゃっていたのは、印象的ですし心強かったですね。

それから、戻ってきた高齢者と新住民をつなぐ、若い世代のUターン促進が急務です。




― これから双葉町は、どんな未来を辿るでしょうか。

残せるものは残しつつ、新しい町をつくっていく。厳密なグランドデザインを持たず、手探りで復興していく双葉町の姿は、まさしく現代らしい都市計画だと私は思います。

他方で、この町と周辺は今後、「日本で唯一人口が増える地域」になっていくということにお気づきでしょうか。

栄えていると思われている東京でさえ、外国人を含めて過去5年間の人口増加はわずか1%で、49歳以下はもう減少しています。10年後には59歳以下、30年後には79歳以下が減る。半世紀にわたって出生数を6割も減らした日本なので、これは防げません。

他方で現在の双葉町の可住地人口密度(=山林を除いた部分の密度)は、7人/km²。これは広大なカナダとほぼ同じ水準です。だからこそ、ここでは風が抜けるような自然を味わうことができますし、それを目当てに移住してきた方が、気持ちよさそうに散歩をしている姿も見かけました。日本全国平均が1000人ですので、今後半減しても500人。ですから今後、双葉町の人口は、密度を10、50、100と高める方向で増えていくでしょう。

こののびのびとしたスタート地点から、どんな街並みがつくられていくのか。かつての日本にあったような、夜更けまで賑やかに語り合う横丁のような一角が、広大な農地の横に築かれるかもしれません。日本最後の開拓地に未来を描く、若者たちの創造力に期待します。





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