
画家 安田萌音|きっかけの町|メッセンジャーインレジデンスレポート#13
2025年6月19日
2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。
メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。今回は、画家の安田萌音さんにインタビューをしました。
「ヒラクフタバ」プロジェクトとは:「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。Webサイト:https://www.hiraku-futaba.jp/
安田萌音|画家。日本画と環境デザインのバックグラウンドを持ち、独自の目線で自然や現象の細部を見つめた上で、それを写し取るのではなく表現に直接落とし込むそれをどのようにデザインしていくかという制作スタイルが特徴。「ひび割れ」を表現手段に取り入れた絵画作品の制作を続けており、個展やグループ展を通じて発表を重ねているる一方で、展示会の企画構成などキュレーションにも携わっている。
― 東日本大震災は、安田さんにとってどんな出来事でしたか。
震災が起きたのは、美術大学の入試を終え、神奈川県の実家のソファーでゆったりと寛いでいたときでした。リビングルームが揺れ、震災を伝えるニュース映像がテレビに映っていたのを覚えています。少し心配もありましたが、 しかし、津波は私の住む町までは到達しませんでした。それからは、美大生としての新生活やに、家族の入院もあり、や計画停電などで間接的に震災の影響を感じつつも が重なり、東北地方の震災のことよりも、目の前の生活に追われる日々が続きました。
今回、福島県双葉町を訪れるというお話をいただきましたが いたときは、正直なところ、「自分にできることは何もない」という考えをが元々持っていました ありました。学生美大時代に、石巻市生まれの友人が、被災地で保育園や幼稚園の壁に絵画を描くボランティアに参加しているのを傍目に見ていたときも、それが素晴らしい試みだと分かっていながら、自身の活動と災害や復興とのつながりを見出すことができず参加できずにいました いる自分がいたのです。特に今回は、双葉町を訪れて目にしたものを、作品として形にすることが求められました。現地を見ることには大きなが意味あると思いましたが、ただ見て感じるだけでなく、その一歩先のことをしなければならない。そんな焦りのようなものがありました。
― 現地では、どんな場所を訪れましたか。
私は自家用車に乗って、双葉町へと向かいました。常磐自動車道を北上し、大熊ICで降りると福島第一原発のそばを走り抜け、国道6号線を再び北上。その道中で驚いたのが、幹線道路の両側に、立入禁止区域が残っていた光景です。左右どちらにも侵入できないため、信号機はずっと黄色く点滅していました。「あと10分で目的地です」とカーナビから声がしたとき、「人が住む町の近くにこんな場所があるのか」といいようのない気持ちになりました。そこから私は、封鎖された民家や双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館
伝承館、浪江町の請戸小学校などを訪れましたが、それらすべてに対して、「かつてここに町があったとは信じられない」という現状とのギャップに衝撃印象を受けました。10年以上も入ることすらできず 放置された末、かつてと同じの賑わいはもう戻ってこない。双葉町で生まれ育った人たちが、その現実をどうやって受け入れているのか、想像もつきませんでした。震災復興において考えなければならないのが、「何をもって復興したというのか」という問題だと思いますです。かつて住んでいた人の目から見て、「これは復興した」といえることがその答えもひとつなのだと思いつつも、双葉町では0 からのまちづくりが進み、新築された市役所や診療所、企業のオフィスなどが建ち並んでいます。他方で、封鎖された区域やそこに家があったことを想起させる区画には草がぼうぼうに生え、崩れかけの家がしがみつくように残っている。そうした光景のアンバランスさを前に、「この町は、そういう場所になってしまったんだ」と実感せざるを得ませんでした。
― 今回の滞在を経て、どんなアプローチで制作をされるのでしょうか。
双葉町を訪れる前に抱いていた「自分には何もできない」という考えは、滞在を終えた今も変わっておらず、むしろその考えはより強いものになりました いません。私には町を設計したり、家を建てることはできず、ただ絵を描くことしかできないのです。「復興のために絵を描くことに、どんな意味があるのか?」。現地を巡りながら、そんな考えが頭の中にありました。その一方で、伝承館の語り部のお話の中に、印象に残っていること 衝撃を受けたものがあります。それは、「一人ひとりが避難の意識を持ち、命を守ることを考えておく。そうやって、一人が何かをすることから、連鎖していくことがある」というお話です。たとえば請戸小学校の生徒と教師全員が山の上に避難し、誰ひとり津波にのまれることがなかった背景には、事前に決めていた津波時の避難方法の通りに、 ある一人の教師が「あの山に逃げよう」と声を上げ、子どもたちを連れて逃げることを選択できたからだという話があります。その中で子どもたちの避難を町の住民が手伝い、ともに高台に避難をしたと言います。正しい考えや行動が連鎖的に広がり誰かを救うことに繋がったのだと感じました。つまり、一人の知識や感覚、判断が、他の人にとって価値あるものになりうるということです。そうやって考えると、私が双葉町を訪れて考えたことも、次の何かに連鎖していくかもしれないともいえます。
この5年ほどの間、私は「ひび割れ」を用いた絵画作品を制作してきました。普段の制作ではなんて事のない場所にある、そこに結果として残った現象をヒントに地面のひび割れや、河川が流れた跡からインスピレーションを受けて、制作にとりかかることが多くあります。滞在の最終日、双葉町の海を眺めていると、ふと「綺麗だ」と感じる光景に出会いました。それは、砂混じりの波が防潮堤防波堤にぶつかり、そこに砂の跡を残していく姿。そのとき私は、いつも制作のきっかけになっているもの 「美しいもの」を見落としていたことに気がつきました。「復興を伝えなければいけない」「新しい試みをしなければ」と背伸びをしてしまっていたのだと思います。確かに特殊な状況に陥ってしまった双葉町ですが、こうして、いつもの自分の目線で見た海の光景が、ピントを合わせればちゃんと見えてくる、変わらずあるものをきっかけに、新しいシリーズの作品のきっかけを制作しようと思いました。 与えてくれたのです。
― 作品を通じて、どんなことを発信していきたいですか。
私が今回の訪問をきっかけにした新しい考え方でのシリーズを制作し続ける限り、その根本には常に双葉町の光景があり続けます。私が現地で悩み、考え、そして気づいたこと発見はそのまま作品に表出するものではないと思います。ただ、を、その作品展示などを通じて何かを伝えられれば 皆さんにお話しできればと思います。私は双葉町の出身ではなく、被災したわけでもありません。語れることはほとんどありません。 には限りがあります。けれども、私の作品とその会話話をきっかけに、それがどんな気づきだったのかを考えてもらったり、体験するために双葉町を訪れるような連鎖反応が生まれたらと思っています。
このことは、双葉町の復興についても似たことがいえるのかもしれません。 はずです。 「人口が約7000人から100人近くまで減少した町」という双葉町の独自性は、他の地域とはあまりに異なり、一見すると参考になりづらいかもしれません。過疎化の一例として参考にするにしてもあまりに極端過ぎますが、す。それでも、「双葉町を復興するために、たくさんの人々が考え実行していることは、ている」ということ自体、、日本全国の過疎化の問題にとっても、一つのきっかけになりうるのではないでしょうか。「ある地域のために、人はここまで考えられる」という前例として。
そしてそれは「復興しよう/新しく作ろう」という岐路にあり、真剣に考え続けている双葉町だからこそ、可能なアプローチであるかもしれません。また一方で、復興という前提にとらわれ過ぎることなく、双葉町で私が海の美しさに気づいたように、震災とは別の文脈にある「あるがままの双葉町」から逸れてしまわない方向に、なにより双葉町がふるさとの方々にとって良い方向に、今後向かっていってほしいと願っています。
本業の契約上、こちらに言及しての業務が不可なためトルでお願いしたいです。
提案を多く入れてしまいましたが、文章としての構成上の問題や内容の重複等がありましたら適宜修正していただいて構いません。