起業家 山川咲|3.11を通して、自分がどう生きるかに向き合うことが大切|メッセンジャーインレジデンスレポート#2
2024年8月10日
2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。
メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。今回は、起業家の山川咲さんにインタビューをしました。
「ヒラクフタバ」プロジェクトとは:「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。Webサイト:https://www.hiraku-futaba.jp/
山川咲|1983年東京生まれ。大学卒業後、ベンチャーのコンサルティング会社へ入社。退職後に単身オーストラリアへ。「意志をもって生きる人を増やしたい」と考え、2012年にウェディングブランド「CRAZY WEDDING」 を立ち上げた。2016年5月には毎日放送「情熱大陸」に出演。その後、産休・育休を経てIWAI OMOTESANDOの立ち上げに携わる。2020年3月27日にCRAZYを退任し独立。2020年12月にホテル&レジデンスブランド「SANU」の非常勤取締役及びCreative Boardに、2021年1月に神山まるごと高専理事に就任。著書に「幸せをつくるシゴト」(講談社)
ー東日本大震災という出来事は山川さんにとってどんな出来事でしたか?震災が起きた後はどんな時間を過ごされたのでしょうか。
私の父はテレビ局のアナウンサーをしていたのですが、私がまだ小さい頃に会社を辞めて終の住処を探しに家族で全国を回りました。最終的に千葉の片田舎に居を構えたのですが、私は渋谷区 で生まれてから15歳くらいまでかなり特殊な生活を経験しました。その父から子どもの頃にチェルノブイリ原発の事故についてよく聞かされていました。なぜ原発がいけないのか、写真集を見ながら原発の恐ろしさを教えられたんです。東日本大震災が起きた時は私は東京に住んでいたのですが、とにかく西へ逃げろ、もしくは国外に出ろと家族から言われて、震災後すぐに被災地に行くことなど考えもしませんでした。福島だけでなく、東北地域全体が私には怖くて行けない場所になりました。
でも心の中では、ずっと被災地に行けない、何もできない自分に対して懺悔をしている日々を送っていました。
東日本大震災の後、1週間ほど会社が休みになり、私はその後会社に行かないまま仕事を辞め、日本から逃げるようにオーストラリアへ行きました。そして日本へ戻り、その後起業しています。震災が起きた当時は会社を辞めるか悩んでいた時期で、その最中に震災が起きたのですが、今は東日本大震災という大きな出来事に背中を押されたと思っています。
ー原子力発電所に対する特別な思いをお持ちだったのですね。その後もまだ被災地や東北地域には同じような感覚を持っていらっしゃるのでしょうか。今回の双葉町での滞在ではどのように過ごされましたか?
震災から10年ほど経過した頃から被災地といつか向き合わなければという気持ちが強くなり、そんなタイミングがくるように思っていました。行くのであれば3月11日に行きたいと思っていて、たまたま村山さんとコンタクトする前に福島県大熊町の人たちとご縁があり講演依頼の日程調整をしたのですが、自分が行きたい3月11日にタイミングが合いませんでした。村山さんがメッセンジャー・イン・レジデンスの参加を呼びかけるSNSを見たのはまさにその後だったので、今風が吹いていると思い行くことを決意しました。
今回現地には信頼するアーティストふたり(松島宏佑さんと中村俊介さん)と村山さんと4人で行きました。アーティストの彼らと一緒の方がさまざまな視点から双葉町を捉えられる気がしたんです。双葉町へは都内から4人で車に乗って向かい、ずっと一緒に過ごしました。
双葉町では、原発事故が起こった福島第一原子力発電所や東日本大震災・原子力災害伝承館には行きたいと思っていましたが、ツアーがしたいわけではなく、控えめにまちや現地を感じようと思いました。
最初はまず海を見に。着いた時は晴天でしたが、海は見たことがないくらい荒れていて怖かったです。その後国道6号線を浪江から大熊町の方へ向かい、まだ除染を行なっているエリアに降り立って歩いてみたりもしました。多くの場所へ行った訳ではないですが、私が想像していたよりはるかに何も進んでいなかったことが衝撃的で、空気もヒリついていました。
ー皆さんで一緒に行動されていたそうですが、道中はどんな話をされたのでしょうか
現地へ 向かう車内で、この旅のチェックインということで、なぜ行こうと思ったのかをそれぞれに話して思いをシェアしました。2日目は伝承館でお部屋を借りて、今感じていることを話し合いました。
私が声をかけたふたりは、今回の旅の意図があまり理解できていなかった中で参加してくれたのですが、行きがけの車中でいろいろ話をしてみると、3.11についてはそれぞれに思いがあるとわかりました。震災の翌日に被災地入りしている子もいました。皆の話を聞いて、人の記憶は長い時間が経つとまだらになっていくのに、3.11の記憶やその時の思いは、長い時間を経ても鮮明に覚えているものなのだと気づきました。多くの人が、あの同じ時間、瞬間のことを覚えている。それだけインパクトのある特別な時間だったと気づきました。
また、現地に行って語り部の方の話を聞いたり、小学校跡地へと赴く中で、自分が原発事故のことを何も知らなかったと思い知りました。被災した方の言葉や、現場を通して知る震災の爪痕、奥行きの深さは想像を絶していました。凝縮され丸められた情報が開かれ、そこにある感情、迷い、悲しみや悩みを初めて目の当たりにして私たちが知っていることがいかに薄っぺらなものかを痛感したのです。何もなくなってしまった現地で語り部さんの話を聴くことに意味がある。それを皆んなが感じる時間になりました。
ー滞在中に最も印象に残ったのはどんなことでしょうか?
3日間滞在する間に海に6回ぐらい行きましたが、いつも荒れていて黒くて常に恐怖を感じました。津波になってまちを襲ったあの日の海と同じ海だと思うと足が竦んだのですが、でもこれが写真として切り取られた風景だったらそうは思わなかったでしょう。編集されていない、ありのままの状況を直に感じなければ、本当に向き合うことにはならないとわかりました。
もうひとつ印象的だった場所は、震災後もそのままになっている小学校です。子どもを守るために先生たちが瞬時にどんな判断をしたのか、現場に刻印されたかのように時が止まっている教室、大きな給食用の鍋や器材が津波に押し流されてある場所に集まって泥だらけに放置されている状況、リアルな時がそこに詰まっていました。その学校の2階は展示室になっていて、10年経過してやっとまちに戻ってきた子どもたちの作文が掲載されていたのですが、やっと帰ってきたけれど、全て流されたまち、ここが自分の故郷だという実感がない。でも、この学校が残っていて、ここに来ることができて、ここが故郷だという実感が湧いたと書いてありました。この一枚の作文を読んで、学校という大きな記憶が宿る場所をつくることへの責任、意義を深く感じました。村山さんともそんな話をしていました。
同時に、帰りたいのに帰れなくなったと原発事故を恨む気持ちは理解しつつ、私には故郷がないので、帰りたくても帰れないと思えるぐらい大切な故郷がここにあることが羨ましい気持ちになりました。場所に対する愛着。ここで起きたことの悲しみは感じつつも、故郷と呼べるものを持っている人たちの心の豊かさを感じました。
ーメッセンジャーとしてどんな発信をしたいですか?
滞在最終日の3月11日の14時から14時半はそれぞれが思い思いに過ごして、46分に集まって黙祷をしました。私は伝承館の前の何もない更地の場所に居ました。14時半、その15分後にあんな地震がくるとは思っていなかった14年前の時間に思いを馳せながら、何が起こるかわからない現実を自分自身に突きつけられていること、その人生のリアリティを感じて、自分の生き方の濃度がさらに濃くなる、さらに命を燃やして生きたいと思いました。
現地の語り部の方が何度も「どうしたらいいの」と言っていたことも印象的でした。私たちはどうしたらよいのかなんて考えずに日々を生きています。でも人が天を仰いでどうしたらよいか考える、それは私たちみんなに投げかけられているメッセージなのだと震災後14年経った今の私はそう解釈しました。
私は言葉を書くことが好きなので、今は書いて言葉を伝えたいし、行くべき人に双葉町へと行ってもらえる機会をつくりたいです。3.11そのものを知ることより、3.11を通じて自分がどう生きるかに向き合うことが大切だと感じたので、そういう場をつくりたいです。
今自分が関わっている神山まるごと高専の子どもたちとも一緒に行きたい。被災して大変な経験をしているのに、それを語ることを選んで表現し続けている人たちに出会えることは、命の重さを知る経験になると思うんです。そういうことに触れて、今自分が生きる世界と向き合ってほしいです。