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メッセンジャー・イン・レジデンス シンポジウム Ⅰ vol.1

2025年1月3日

メッセンジャー・イン・レジデンス シンポジウム Ⅰ vol.1


2011年3月の東日本大震災とともに起きた福島第一原発事故により、全町民が避難を強いられた双葉町。2022年8月30日に11年の時を経て部分的に避難指示が解除され、再び人々が住み始めたこの地域は、「今までの延長上にない未来へ」と新しい物語を始めようとしています。


メッセンジャーインレジデンスプログラムは、アーティストや写真家や編集者など、独自の視点を持つさまざまな個が"メッセンジャー"となり双葉町を訪れ、感じ取った体験を作品などにして残していく、「ヒラクフタバ」プロジェクトによる取り組みです。


今回は、「メッセンジャー・イン・レジデンス」の取り組みのまとめとして、メッセンジャー・イン・レジデンスに参加いただいた方々にお集まりいただき、アウトプットや作品に込めたメッセージ、現地で感じられたことなどについて深掘りしてお話を伺うシンポジウムを開催しました。

「ヒラクフタバ」プロジェクトとは、「被災地から、可能性の新天地へ。」を掲げてさまざまな人達の間に議論やアクションを生むことを目指す発信活動。https://www.hiraku-futaba.jp/

〈メッセンジャー〉

塩井 一孝   /アーティスト

道山 れいん  /詩人

寺本 健一   / 建築家/Office of Teramoto 主宰

指出 一正  /編集者/『ソトコト』の編集長


〈ヒラクフタバ〉

佐々木 晶二 /元国土交通省国土交通政策研究所長

林 厚見   /株式会社スピーク

村山 海優

嶋田 洋平(モデレーター)/株式会社らいおん建築事務所



嶋田 本日はメッセンジャー・イン・レジデンスのシンポジウムにご参加いただきありがとうございます。まずこのシンポ ジウムの主旨をご説明をします。

今回メッセンジャー・イン・レジデンスのプロジェクトでは、皆さんに双葉町に実際に滞 在していただき、そこで感じたことを各々の表現でアウトプットしていただくことをお願いしました。 今日は皆さんのアウトプットに込めた思いや、現地で感じたことを伺っていきたいと思っています。


まずメッセンジャー・イン・レジデンスを行うことになった背景、双葉町での僕たちの取り組みを紹介します。

数年前から、僕と佐々木晶二さん、林厚見さん、村山海優さんを中心に双葉町をどのように復興していったらよいかを考えていくお手伝いをしています。東日本大震災で被災し、福島第一原発事故の影響でまちのほぼ全域が「帰還困難区域」となってしまった双葉町は、2023 年 8 月に避難指示が解除され少しずつ人が戻りつつあります。しかし従来型のまちづくりでの復興はなかなか難しい状況であり、30 年後、50 年後双葉町がどのような町となっているとよいかについて、有識者の方のお話を聞いたり、町民の方のお話を伺ったりしてさまざまなことを模索してきました。


そういった議論の中からぼんやりと見えてきた将来像があり、それについてを僕たちで双葉町の(仮)ビジョンというかたちでまとめました。 それを広く日本中、さらには世界中の方々に知っていただきたいという主旨で「ヒラク フタバ」という HP を作成し、そこに公開しています。さまざまな人たちからの意見や将来像のイメージが掲載されているのですが、双葉町のように原発事故 の被害を受けたまちだからこそ考えられるさまざまなビジョンが示されています。 多くの意見をひとつにまとめることはできないのですが、いろいろな可能性が見えてきたため、それらをまとめてみました。


1. 2050 年の目線で考える

2. 新しい形を焦らず未来に希望を持つ発想へ

3. 心の復興

4. 祭りから復活

5. 撤退的創造

6. 関係住民のあり方も、考える

7. 世界的な意味を強みに

8. 可能性・価値としての「疎の空間」

9. ここならではの仕事を

10.「志ありき」の投資へ

11. 中域視点、連携主義

12.etc...


通常はインフラから復興することを考えがちなのですが、ハード的な復興よりも心の復興を大切にし、お祭りから復活させる方がよいのではないかとか、復興というと活性化したり人口を増やすことを念頭に置きがちですが、撤退的な創造、地域 をシュリンクさせながら復興をしていく方法。地域にはもともと多くの町民がいらしたので、その方々が戻ってくることを考えるのが本来の復興のあり方かもしれないですが、戻ってくることができない現実もあるので、町民だけではなく、関係町民と位置付ける双葉町に心を寄せる人たちのあり方を考えること。 あとは原子力発電所があったことと、それによって起こってしまった事故のことは忘れたい思いがあるのは認識しつつ、忘れてしまうのではなく、起こってしまったことを世界的な強みに変えていく考え方もあるのではないか、とか。


町民の皆さんは「何もない場所」とおっしゃるのですが、「何もない」ことを可能性や価値として強みにかえていけないか。 復興を国の政策や制度に頼るとハードの整備ばかりが進んでいく印象が強い中、双葉町ならではの仕事のあり方で復興していけないか、新しいタイプの投資、志のある投資をする人たちを主体としてまちづくりを進めていくことも大切出し、可能性があると思っています。 双葉町だけの行政単位で考えるのではなく、もう少し中域視点で他の地域との連携をしながら、役割分担しながら進めてい くことも考えられると思いました。そうした現在の 11 項目です。これは 11 個に決めたわけではなくて、他にももっとさま ざまな考え方があるでしょうから、それを双葉町民だけではなくて、双葉町に関心を持っていただいたり、心を寄せていた だいた方々とこの復興のビジョンを育てていき、アクションに繋げていくのが大切だと思います。ここまでのことを数年かけて行ってきましたが、こうした取り組みだけでは社会的認知になかなか繋がらない現状があるの も事実で、であれば、今回はさまざまな活動をされている皆さんにこういった(仮)ビジョンがあることも踏まえた上で、 震災から 13 年経った双葉町に実際に滞在していただき、そこで感じたことを何かしらのかたちで社会に発信していただけ ないかというのが、メッセンジャー・イン・レジデンスの主旨になります。


お話を伺う前にヒラク フタバを一緒にやっているメンバーを紹介します。元国土交通省の国土交通政策研究所の佐々木晶二さんです。



佐々木 佐々木と申します、よろしくお願いします。元公務員の立場からいろいろと責任を感じて双葉町の復興に向き合っ ています。原発事故で被災したまちがどんな未来をつくれるのか、嶋田さん、林さん、村山さんにお声がけをさせていただき取り組んでいます。よろしくお願いします。



嶋田 株式会社スピーク共同代表の林厚見さんです。



林 よろしくお願いします。私は双葉町はこの 4 年間ほど関わっています。先日、審査委員を務めている大東建託株式会社 が主催する建築コンペも双葉町を舞台に提案応募を行って多くの反響がありました。さまざまなかたちで双葉町のことを 知ってもらえたらと思っています。仕事は主には建築、不動産、まちづくりなどの仕事をしています。よろしくお願いします。



嶋田 ありがとうございます。もうお一方は村山海優さんです。



村山 私自身は双葉町の取り組みには 2 年ぐらい前から参画しています。普段は徳島県の神山町という人口 5 千人ぐらい、 震災前の双葉町よりも小さい規模のまちに移住して学校づくりをしています。未来の子どもたちに何を残せるかを考えなが ら仕事をしていますので、そういった知見を活かして双葉町にも貢献することができたらと思っています。よろしくお願いします。




ーー東日本大震災発生時に感じたこと、原発事故が起きたことに対する思いを教えてください


嶋田 最初の質問になります。自己紹介と合わせて、東日本大震災時に原発の事故が起こったことについて皆さんがどのように感じていたかを聞かせてください。


僕はまさにその時、テレビで福島第一原発が爆発している映像を見て衝撃を受けたのですが、どこか遠いところで起きている印象を受けました。東京でも計画停電が起こり、影響がどうなるかが分からなかったので、小さい子どもたちが心配になり妻と子どもは一週間程度九州に避難させました。


皆さんはどうだったのでしょうか。

まずはビジュアルアーティストの塩井一孝さん、よろしくお願いします。


塩井 こんにちは。福岡県宗像市でアーティスト活動をしている塩井一孝です。

普段は彫刻や絵画、主には立体作品を製作しています。近年は写真を立体化する作品を製作していまして、写真を石に転写するといった作品づくりをしています。


震災当時、僕は大学院を卒業して就職する前の春休みの最中でした。震災が起こった時は大学院で製作した作品を知人の飲食店に設置するための搬入作業をしていて、お昼のニュースで大変なことが起きていると知りました。その翌日原発事故のニュースを見ました。九州の福岡に居たので原発事故が起こった場所からはかなり距離が離れていたことや、大学を卒業し、新しい会社に入って 1 年目だったので、日々自分のことに精一杯で東日本大震災の状況を自分ごととして捉える ことはなく、遠い場所で何か起こっている感覚でした。入社 1 年目の毎日に追われ、2 年 3 年が経過していつの間にか忘れてしまっていました。



嶋田 ありがとうございます。次は詩人の道山れいんさん、よろしくお願いします。



道山 詩人の道山れいんと申します。私は詩人なので、詩を書いたり、詩集を出したりはもちろんですが、声に出して言葉を届けるポエトリーリーディングを 8 年ほど前から試みています。2022 年にポエトリーリーディングの日本国内大会でチャンピオンになり、昨年、世界 20 カ国の代表が集まったパリでの世界大会、40 カ国が集まったリオデジャネイロの大会に参加し、リオデジャネイロの大会で準決勝に進出しました。2015 年に世界遺産に登録された「三井三池炭鉱」がある福岡県大牟田市の出身なので、大牟田大使として地域振興の活動なども行っています。 私は言葉で伝えていくことと、自分の原点である故郷(ふるさと)を大切にしていきたいと思っていまして、ポエトリーリー ディングでは各自が自国で詩を読むポエトリースラムというカテゴリーがあり、そこでは地元の大牟田弁を使っています。 それで伝わるのか? と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、これが結構通じるものなんです。表面上ではなく深いところで世界と繋がれる実感がありました。それぞれの文化が育んできた言葉の共通の意味合いなのかもしれません。

2011 年の 3 月 11 日、私は東京の地下鉄構内にいました。ものすごい揺れだったのですぐに外に出た記憶があります。ニュースで原発事故の状況、爆発する様子を見た時には世界が終わってしまうような気がしました。今回メッセンジャー・イン・ レジデンスに参加して現地に行かせていただき、東日本大震災・原子力災害伝承館で震災や原発事故の記録を実際に目の当たりにして、本当にそういう可能性もあったんだなと当時の記憶が蘇りました。 報道を通して見ていた時は双葉町は遠い世界だと思っていて、その場所の名前、周辺の地域のこと、それらが実感として自分に入ってこなかったのですが、今回実際に現地に行き、「ふたば」はよい名前だな感じました。そういうことに気づけて、 実際に現地へ行くことの大切さを改めて知りました。

震災後はかなり無力感に襲われました。多くのアーティストたちがアートにできることは何なのかを模索されたと聞いて いますが、私自身は何もできないことに呆然としていました。しかし 2011 年 4 月に、老木の桜に花が咲いているのを見た時、 誰かが待っているのではないかと感じたんです。なので 5 月頃に小さな車に乗って石巻、静川、気仙沼に向かい、途中スーパーで夏みかんとティッシュを買って各所に届けました。 東北に向かう道中の津波に襲われた場所の無惨な状況からその威力を実感したことは今でも忘れられません。今回数年ぶ りに被災地に足を踏み入れ、滞在し、震災直後に訪れた時とはまた違った目でその場所を感じることができました。



嶋田 ありがとうございます。オフィス・オブ・テラモトの寺本健一さんお願いします。



寺本 寺本と申します。よろしくお願いします。建築家です。私は千葉県勝浦市で建築デザインの事務所をやっています。 実は一昨年までは中東アラブ首長国連邦のドバイに 9 年ほど滞在し、レバノン人の友人と一緒に設計活動をしていました。 ご存知のようにドバイは究極的な資本主義であり、どんどん高層建築が建っていく状況に身を置いて建物を残してきまし たが、現在はそれとは対称的な少子高齢化と過疎化が進む地域で、しかも縁もゆかりもない場所に拠点を構えることで建 築をまた別な視点で捉えようと考えて活動しています。


東日本大震災が起きた 2011 年はドバイに行く前年、独立する前で、東京の恵比寿にある設計事務所に勤めていました。地震があった時、ちょうど担当していた駅の設計における構造の打ち合わせをしていて、構造設計者とミーティングしていたので、建物の上階から下に降りて前面の大きな道路に出て、車がすべて止まっている光景を目の当たりにしながら、次 P 派がくるとか S 派がくるとか、かなり専門的な言葉を聞きながら揺れを感じていました。 僕は自宅にテレビがなかったので、ニュースは Twitter などで見ていました。結婚はしていましたがまだ子どもはいなかったので、家に戻ってきた妻とどうしようかと話はするものの、対応するための知識もなく、Twitter の情報を頼りに右往左往していました。



嶋田 ありがとうございます。では最後にソトコト編集長の指出一正さんお願いします。



指出 指出と申します。今日は参加させていただき嬉しく思っています。嶋田さんお声がけいただきありがとうございます。 僕はまだ双葉町に行けていないのですが、3 月末に 3 日ほど行こうと思っています。楽しみにしています。


僕は編集の仕事をしています。双葉町との関係は福島ソウソウ復興推進機構?と 3 年ほどお仕事していて、楢葉町や大熊町、 富岡町、双葉町といった福島県の 12 市町村に若い関係人口の皆さんをお連れして新しいプロジェクトをつくったり、地域 との関係性を深めるようなことを監修設計するお手伝いをしています。双葉町にもこの仕事では行っているのですが、今 回は一個人として赴き、どういうことを考えていけるかに向き合いたいと思っています。


東日本大震災が起きた時、僕はちょうど聖路加タワーのドトールでコーヒーを飲んでいました。近くに編集部があったので、 その 5 分、10 分前は石巻の津田鮮魚店という買い物難民のご年配の方々を大学生がサポートするという新しい仕組みを生 み出していた会社のツチダさんという若い方に連絡を取っていて、いつでも取材に来てくださいねとありがたい返信がき て、その 10 分後に地震が起きました。 ですので、まずは石巻の皆さんは大丈夫かなと考えました。連絡が取れて大丈夫とのことだったので、3 月末には歯ブラシ をいっぱい持って石巻に行きました。仙台で懇意にしている編集部の方が寝泊まりしてよいと言ってくださり、そこに寝 袋を持って行って泊まったりしました。 震災が起きた時は、原発の事故も衝撃的でしたが、同時に自分がいた東京ってこんなに脆いんだなと思いました。みんな 帰れなくなるし、駅のプラットフォームに非常時であるにもかかわらず滞在させてもらえない、人が困っているのに公共 の場所にいることが許されないってどういうことだと憤ったのを思い出します。 僕は元々釣り雑誌の編集者だったので、太平洋の海沿いのまちにはよく魚釣りに行ったり、おしゃれな古い釣具店がたく さんあるので遊びに行っていました。大好きな場所だったのですが、どこもめちゃくちゃになってしまい、予測不能なことが起きた時に、大人ができたことって何だろうと考えさせられました。原発事故が起きた時の映像を見て、自衛隊のヘ リがきて、みんなが水バケツリレーをしているのを見て、大人が一生懸命やってこれぐらいのことしかできないんだなと 思ったんです。なので、大人だからって何も偉ぶれない、そう思いました。


東日本大震災が起きる 3 年前に新潟の柏崎刈羽原子力発電所の炉心棒の中に仕事で潜っていました。ちょうど冷却水が漏 れて稼働が止まっていたタイミングで入ることを許されたのですが、その時に見た光景は日本国においていちばん大事な 仕事をしている人たちがフランスやアメリカやカナダの技師で日本人がいない現場でした。あれ、こんな状態で大丈夫なのかなと思っていたら、2011 年に東日本大震災が起きたので、日本国民の根幹を支える場所での仕事がアウトソーシングされている状況は危機感を持つべきなのだと正直感じました。 普段、自分たちのまちや暮らしを自分ごとにと言いながら、その暮らしを支える部分を全く自分ごととして考えていなかっ たことを猛省したのと同時に、自分の暮らしを自分のもとに置いておく努力をしないといけないと思いました。 余談ですが、2011 年の 3 月にソトコトの副編集長から編集長になったのですが、その時は大変に困りました。紙がなかっ たんです。日本製紙の石巻工場でつくっていた紙を使っていたのですが、石巻に行ったら津波で大きなロールが流出して 泥だらけになっていて。それを見た時、当分は物を買う雰囲気でもなければ、ましてや雑誌なんて全く買う人がいないだ ろうと思いました。



嶋田 皆さん、ありがとうございます。お話を聞いていて僕も思い出したのですが、あの時は帰宅難民がたくさんいて、 当時の事務所があった道路も車は大渋滞で全く動いていませんでした。「トイレに行きたい人はどうしてるんだろう」と心 配になり、来るはずもないと思いつつ Twitter で事務所のトイレを開放していると発信していました。何か小さなことでも できることがあればと思ったのを思い出しました。


自然災害や地震災害が起きると、最初に現地に行って行動するのは建築家なんですよね。そのことを批判する気はないの ですが、僕自身はまったく気が乗リませんでした。被災地にどういう顔をして行けばよいかわからないし、あとこれは言 葉が悪いかもしれませんが、その後の復興ではハードの建設が必要になるでしょうから、それを見越した行動と見られて しまうんじゃないかと。それが気になって全然動けませんでした。 復興の仕事も何度かお声がけいただいたのですが、気乗りしなかったというのが正直な気持ちです。

ただ今回、4 年ほど前に佐々木さんからお話をいただき、10 年間双葉町に人が帰れていないことを聞き、何も知らなかっ たことに衝撃を受けました。放射性物質の除染が終わり、やっと人が戻れることを知らなかった。お世話になっている佐々 木さんにお声がけをいただいたので、気乗りはしないながらも双葉町に行ったのが 4 年前の出来事です。 当時まだ常磐線が開通していなかったので、いわきからレンタカーで佐々木さんと林さんと一緒に行ったのですが、国道 沿いがまだバリケードで覆われていて、その向こう側の建物は当時のまま半壊状態で放置されていました。双葉町に入る と今度はほとんどの建物が解体されてほぼ更地になっていて、遠くに福島第一原発が見えたり双葉町役場が震災が起こっ た当時のまま佇む様子を見て、あまりにも自分が無関心だったことを反省しました。そして、日本人の大人は全員ここを 見に来た方がよいと思いました。その状態を知ってもらうことが大切で、そこからしか双葉町の復興は始まらないなと思っ ています。




ーー福島県双葉町が 10 年帰れない場所であったことを知っていましたか?


嶋田 福島県双葉町が 10 年間強制的に避難しなければいけない状況にあったことをご存じでしたでしょうか。また、これまでに双葉町に行かれたことがあったか教えてください。塩井さんからお願いします。



塩井 僕も双葉町が 10 年間人が入れなかったことは知らなくて、お話を聞いて自分は何も知らなかったんだと反省しまし た。あと双葉町は一度も訪問したことはありませんでしたし、原子力発電所が爆発したのは知っていましたが、具体的に 福島県のどの場所かというのも今回の機会まで調べようともしませんでした。自分の無知さ無関心さを知りました。



嶋田 大多数の日本人がそうだと思うんですよね。



塩井 この 10 数年、九州で仕事をしていて東京に関わりがなかったので、東京の人よりももっと知らなかったように思います。東京と九州の人でも温度差があると思います。



嶋田 ありがとうございます。道山さんは震災後に行かれたとお話しされていましたが、いかがでしょうか。



道山 当時、風が向う方向が赤く記載されている地図などを報道で見ていましたから、双葉、大熊、楢葉、浪江という地 名は報道では聞いていましたが、車で被災地へ行った時は高速を使ってそれらの地域を通り過ぎて更に北のエリアに支援 物資を持って行ったため、訪れたことはありませんでした。 福島第一原発の周辺の地域は、帰宅困難のイメージが強くて、行政や原発関係の方たちしか入ることができないとずっと 思っていました。最近、コンビニができたとか、大規模な繊維工場ができたというニュースを見て、住んでいる人もいる のかなと朧げな認識はしていました。 人が住める場所ではないと思い込んでいた中で、今回実際に行ってみると自分の認識以上に戻る行程は進んでいるんだな と思いました。ただ人それぞれに捉え方が違うということは今お話を聞いていて感じました。



嶋田 ありがとうございます。寺本さん、いかがですか。



寺本 震災後も目の前の仕事や生活に追われていたので、被災した地域のことを考える余裕はなかったのですが、避難し なければいけない地域があることは理解していました。ただそれが 10 年間強制的に続いていることはフォローアップでき ていなかったです。双葉町にもこの機会をいただいて初めて行きました。行く前にリサーチのために資料集めをしていく 中でこれまでの経緯や歴史、マップを見ながら行きたいところをプロットして初めて細かくリサーチしてやっと地名も理 解できていくような状況でした。



嶋田 はい、ありがとうございます。指出さんはいかがでしょうか。



指出 帰宅困難区域にも段階的な緩和が起きて、ここ何年間かでだんだんと復興というか、まちが新たにつくられていく状況が各所で見えているなという感じがあります。双葉町の状況は仕事柄知っていましたが、10 年を経て避難指示が解除 された。それだけ長い時間が経ったんだなと思いました。僕は被災した 12 市町村の皆さんが新しい生活を始められた山形県の米沢市や埼玉県の加須市での生活の様子を見てきたの ですが、そういった場所での皆さんの様子を取材して思うのは、10 年という時間は、若いファミリーにとっては故郷の移 行に繋がるぐらい長い時間だったのだなということです。子どもは小学生、中学生で 9 年間ですから。親は福島浜通りが 故郷だと思うかもしれないですが、子どもたちからしてみると自分がいちばん青春を過ごした場所が違う場所になってし まっている。故郷が変わることを余儀なくさせてしまったんだなと思って、僕の中では何かよいかたちで故郷を取り戻す ことができたらよいのではないかと思っています。



嶋田 僕、高校生の時に理系の学科にいたので、特別授業で原子力セミナーを受講したことがありました。理系の大学に 進む人が多かったので物理の授業の一環だったと思うのですが、その時に自然界にもたくさん放射性物質はあって、その 放射線量を調べたりして実際に放射性物質に触ったりしたのと同時に、九州電力の玄海原子力発電所に実際に見学に行っ て、いかに原子力発電所が安全かを見に行ったんですそね。当然チェルノブイリ原発で起きた事故のことなども教えても らうのですが、当時のソ連の技術や今の日本の原子力発電所の技術の違いとか、安全面に対するリスクの取り方の考え方 の違いとかも教えられて、ほぼ 100% 安全であると教えてもらったんです。なので僕は原子力発電所の基本的な構造や仕組 みは知っていて、にもかかわらずああいった事故が起こって、正直「やっぱり嘘か」と思ってしまいました。 先ほど寺本さんもおっしゃっていましたが、当時 Twitter で情報収集している人も多かったと思いますが、政府から発表さ れる情報の信頼性が揺らいでいて、もう少し違うところから情報を集めないとまずいなと東日本大震災の機会で認識する ようになりました。メディアの信頼性が揺らいでいる。 今回メッセンジャー・イン・レジデンスにお声がけをしたり、双葉町でこういうことをしていると話をした時に、リアクショ ンとして本当に放射線大丈夫なのですか? と聞かれることが多いんです。政府がいかに大丈夫と発信しても情報の信頼 性が揺らいでいる証だと思いました。今回メッセンジャー・イン・レジデンスをなぜ企画しているかというと、実際に行っ た人の一次情報じゃないとみんなが信用しないのではないかと思ったからです。それが声としていちばん届きやすいと。 皆さんに実際に行って、見て、感じたことを発信していただくことが、最適なメディアになると思いました。



ーーーーvol2へ続く

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